赤外領域のシンクロトロン放射光とその利用研究
赤外領域におけるシンクロトロン放射光(赤外放射光)を利用した研究について、以下の順序で紹介していきます。なお私たちが赤外放射光を使って研究を行っているSPring-8のビームラインBL43IRについてはここを参照してください。またSPring-8公式ウェブサイトにおけるBL43IRのページはここです。
(1)従来の赤外光源(黒体輻射を利用する熱光源) (4)赤外SRと利用実験
(2)シンクロトロン放射光(SR) (5)世界のSR施設における赤外ビームライン
(3)熱光源と赤外放射光の比較 (6)私たちの赤外SR利用実験(SPring-8)
(1)従来の赤外光源(黒体輻射を利用する熱光源)
赤外分光のための光源として古くから用いられてきたのは、高温物体からの黒体輻射を利用した「熱光源」です。具体的には棒状のセラミクスに埋め込んだ電熱線に電流を流して熱するなどして、1500 K程度に熱します。(このような光源はグローバーglobarとも呼ばれます)人間の目には(可視光で見ると)ぼーっとオレンジ色に光るだけで明るくありませんが、赤外線は非常に強く出ます。黒体輻射の強度スペクトルは、よく知られたプランクの輻射公式で表されます。
この式をI(λ)dλに書き換えて計算した黒体輻射スペクトルI(λ)の例を下図に示します。(単位波長当たりのエネルギーです。上式の単位振動数当たりのままで計算すると、強度最大になる波長が下図と異なってくるので注意)
図で310 Kは人間の体温、1500 Kは赤外分光で使う熱光源の温度、2200 Kは白熱電球のフィラメントの温度(家庭用の白熱電球でもフィラメントはこんな高温になるって知っていましたか?)、そして6000 Kは太陽表面の温度です。図中の虹は可視光の領域(400-700 nm)を表します。我々の体は10 μmあたりにピークを持つ光を発しており、赤外用の熱光源は2 μmあたりにピークがあります。また白熱電球のスペクトルで可視光はその裾だけであり、100 Wの電球の消費電力のうち、光になるのはわずか数Wに過ぎません。それに比べて太陽のスペクトルはピークがちょう可視光領域にありますが、これはヒトの眼が太陽の発する光スペクトルに合わせて進化した結果と思われます。
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(2)シンクロトロン放射光

シンクロトロン放射光(SR)とは、上の左図のように光速近くまで加速された電子線の軌道を磁場で曲げた際に生じる指向性の高い光であり、かつX線から赤外線まで広い波長範囲にわたる白色光です。磁場を発生する磁石を円状にたくさん並べて電子を周回させる「電子蓄積リング」とよばれる大がかりな実験装置を使って、それぞれの磁石から発生するSRを使って様々な実験をやろうというのが放射光施設です。例えば私たちが実験を行っている大型放射光施設SPring-8(上の右図の写真、播磨科学公園都市)では円周1.4 kmにわたって48台の偏向電磁石が置かれています。SPring-8を周回している電子線の加速エネルギーは8 GeV (8×109 eV)で、世界の放射光施設の中であり、加速エネルギー、リングの大きさ共に世界最大の放射光施設です。日本には他にも極端紫外光実験施設UVSOR(愛知県岡崎市・分子科学研究所)、Photon Factory(つくばKEK)、さらに立命館大学、広島大学、佐賀大学にも放射光施設が稼働しており、世界的に見てもSR大国であると言えます。世界的にも米国、ヨーロッパを中心として数多くのSR施設が稼働しています。その中でも特に大型で加速エネルギーが高い施設はSPring-8の他に米国のAPS(Advanced Photon Source)、ヨーロッパ連合(場所はフランス)のESRF(Europian Synchrotron Radiation Facility)です。

SRの最大の利点は高輝度性、つまり光源の実質的サイズが小さく指向性も高いため、試料上の微小な領域に大きな光強度を集中できる点にあります。このため例えばX線回折による結晶構造解析ではごく微量の結晶(タンパク質の構造解析など)でも質の高いデータが得られます。また毛髪に付着したわずかなヒ素など、ごく微量の特定物質をX線蛍光などで検出できる利点もあります。さらにX線、真空紫外領域では他に白色光源そのものが存在しないため、この白色性もSRの大きな利点です。

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(3)熱光源と赤外放射光の比較

このSRの高輝度性を赤外線領域で活用しようというのが、赤外SRを用いた研究です。そこで従来の赤外光源である熱光源とSRを比較してみましょう。熱光源からは非常に強い赤外線が出ると言いましたが、これは光源全体から発せられる光を考えた場合のことです。実際熱光源に手をかざすと非常に暖かく(熱く)感じますが、この場合は直径1cm, 長さ5cm程度の熱光源全体(かざした手に向かい合っている部分)からの黒体輻射が手によって検知されています。(間の空気を通して熱伝導しているわけではありません!)しかし例えばレンズや凹面鏡を使って試料上の1 mm四方の領域に熱光源からの赤外線を集光する場合、棒状の光源全体の光を1 mm四方に集中することは不可能で、下の右図のように光源の前に絞りを置いて、光源のサイズを小さくする必要があります。熱光源からの黒体輻射は全体としては強くても、このような微小面積当たりにすると非常に弱くなります。また放射の指向性も低いです。これらをまとめて「輝度が低い」といいます。

一方の赤外SRでは、元々細い電子ビームから発生する赤外線であるため、光源の実質的なサイズは小さいです。また放射光の特長の一つとして、光の指向性がとても高いです。ですから発生する赤外線の全強度は熱光源よりもずっと小さいのですが(赤外放射光に手をかざしても暖かくとも何ともありません)、微小な試料上に絞った際には、その光が当たっている場所での単位面積当たりの光強度が非常に大きくなる、そういう光源です。これを「輝度が高い」光源とよびますが、平たく言えば「絞ってナンボの光源」ということです。これを表したのが上の左図で、右図の熱光源との違いは明らかです。


次に理論的に熱光源と放射光の輝度、つまり光源の単位面積あたりから、単位立体角へ放射される光の強度を計算した結果を以下に示します。(Y. Ikemoto et al., Opt. Commun. 285 (2012) 2212-2217より)

この計算ではSPring-8のパラメーター、つまり加速エネルギー8 GeV, 磁場で曲げられる電子線の曲率半径40 mを用いています。横軸のcm-1は波数で、波長との関係は1000 cm-1=10 μm, 10000 cm-1=1 μmです。赤外放射光の輝度は波長1-10 μmの中赤外領域で熱光源の100倍以上高いことが判ります。


実際の赤外SRを用いた実験では、この高輝度性を有効に利用するため、赤外専用に設計された顕微鏡を使う場合が多いです。(赤外顕微鏡と通常の光学顕微鏡の最も大きな違いは、赤外顕微鏡ではレンズを使わず、すべての光学系を鏡だけで構成することです。)下の図はSPring-8の赤外ビームラインBL43IRにおいて、赤外顕微鏡を使って試料位置での光強度の2次元分布を調べた結果です。比較のため、分光器に内蔵されている熱光源の光を、同じ条件で測定しています。

この図より、SPring-8の顕微分光装置では、確かに赤外放射光が熱光源に比べて単位面積当たり100倍以上の光強度を与えていることが判ります。

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(4)赤外放射光と利用実験

このような高輝度な放射光を用いて行われている赤外分光実験としては、以下のような例があります。

・微小な試料の測定:微小な単結晶の試料、毛髪や繊維のような試料、など。物性物理で対象となる物質では、微小な結晶しか育成できない場合も多く、そのような場合に赤外放射光による顕微分光が役立ちます。

・試料の空間分解測定(顕微測定):試料内部の異なる領域のスペクトルを区別して測定する):これが放射光を用いた顕微赤外分光の最もポピュラーな応用です。基礎研究では多結晶試料のうち特定の単一ドメインだけを測定するなど。あるいは微小な試料面だけを測定するなど。産業応用における分析だと、例えばICチップ内に付着した異物の分析や同定、あるいは層状デバイスの界面での分子振動のスペクトルから、その界面の質を評価するなど。他にも色々考えられます。

・試料空間が制限された条件での測定:例えば高圧発生セルに封入された試料の赤外分光など。これは私たちが現在最も力を入れている測定法です。また超電導磁石のボアに置かれた試料の測定など。

・信号強度が微弱な対象での赤外分光:近接場分光や表面吸着分子の振動分光などは元来信号強度が非常に弱いため、放射光の高輝度性が利用できる対象です。私たちもSPring-8の高輝度赤外放射光による近接場分光を推進しています。(下の(6)を参照にして下さい)

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(5)世界の放射光施設における赤外ビームライン
世界で最初に稼働し始めた赤外専用のビームラインは、日本のUVSORのビームラインBL6A1です。(現在はBL6B)その後まもなくアメリカのブルックヘブン国立研究所の放射光施設NSLSでも赤外ビームラインが建設され、ヨーロッパでも英、独、仏を中心に赤外ビームラインが相次いで建設されました。以下は現在稼働している、あるいは建設が決定している赤外ビームラインがある世界の放射光施設です。施設名はHPへのリンクが、そして(IR)とあるところは赤外BLへのリンクがあります。
アジア
SPring-8 (IR) UVSOR (IR)
立命館大学SRセンター (IR) 立命館大学山田研究室
NSRRC(台湾) (IR) SSLS (Singapore) (IR)
北米
NSLS (Brookhaven, USA) (IR-1, IR-2, IR-3, IR-4) ALS (Berkeley, USA) (IR)
SRC (Wisconsin, USA) (IR) CAMD (Baton Rouge, USA) (IR)
Canadian Light Source (IR-1, IR-2)
ヨーロッパ
ESRF (Grenoble, France) (IR) SOREIL (Saclay, France) (IR-1, IR-2)
BESSY (Berlin, Germany) (IR) ANKA (Karlsruhe, Germany) (IR-1, IR-2)
Metrology Light Srouce (Berlin, Germany) (IR) MAX-lab (Sweden) (IR)
DAφNE-Light (Frascatti, Italy) (IR) Elettra (Trieste, Itary) (IR)
Diamond Synchrotron (UK) (IR) Swiss Light Source (IR)
オセアニア
Australian Synchrotron (IR)
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(6)私たちの赤外放射光利用研究
私たちのグループでは、SPring-8におけるパワーユーザー課題「赤外放射光の次世代利用研究推進」(2009-2013年度)として、主に以下の2つの研究テーマを推進しています。
(1)高圧における赤外分光による、物質の電子状態の研究
  詳細は研究トピックス(2)を参照してください。
(2)近接場光学技術を応用した超解像顕微FT-IRの開発
通常の光学技術では、光が波としての性質を持つため、波動光学の「回折限界」により、どんなに優れた集光光学系を用いたとしても、光のビームをその波長程度より小さな領域へ集光することはできませんでした。より正確には波長をλ、集光光学系のNA(numerical aperture、開口数。集光角度のsinで与えられる。光軸に対して片側30°で集光する場合がNA=0.5)として、レンズや凹面鏡で光を集光して得られる最小のビーム径は0.6λ/NA程度でした。
これに対して光の波長に制限されず高い空間分解能が得られる光学技術が近接場光学の手法です。NSOM, SNOMなどとよばれます。(Near-field scanning optical microprobe) NSOMはこの10年間ほどで急速に進歩した技術で、現在は主に可視領域のレーザー光を光源として、主に次の2種類の実験配置で行われています。
上図に示すようにNSOMの一つ目の方法は開口型とよばれ、実際は光ファイバーの先端を先鋭化して金属コートしたものが用いられます。一方散乱型NSOMでは細い金属探針の先端付近で試料の情報が求まります。いずれの場合も開口や探針先端に局在した近接場光という電場を生じさせ、この近接場光が試料表面と相互作用して発光したり、あるいは散乱されたりした信号を検出します。光の回折限界に依らず開口や探針先端の直径によって空間分解能が決まるため、波長よりもずっと小さな空間分解能が得られます。これは超解像とよばれます。
(近接場光学の基礎に関しては、例えばこの日本光学会のサイトを参考にしてください)
ただしNSOM信号は非常に弱いため、これまでのNSOM実験はほとんど強力なレーザー光源によって行われてきました。これは赤外領域でもかわらず、例えばCO2レーザーを使って波長10.6μmでの実験が行われています。しかし様々な分子の固有振動数(指紋振動数)を活用するには、FT-IRのような広い周波数領域が必要になります。
そこで私たちは、以下の図に示すようにSPring-8の高輝度な白色赤外線を光源としてNSOM技術を併用した、超解像顕微FT-IRの開発を進めています。
上図:SPring-8の高輝度赤外放射光を光源として、原子間力顕微鏡(AFM)のカンチレバーに取り付けた探針先端による散乱型近接場光学を利用した、超解像顕微FT-IRの概念図。この手法によれば、FT-IR(フーリエ分光))の利点である広いスペクトル領域を保ったまま、従来の顕微FT-IRよりずっと高い空間分解能での赤外顕微分光が可能になると期待されます。

この実験により期待される応用。広いスペクトル領域を活用した、分子振動領域での応用が期待されます。
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